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1812年 (序曲) : ミニ英和和英辞書
1812年 (序曲)[じょきょく1812ねん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 
: [ついで]
 【名詞】 1. (uk) opportunity 2. occasion 
序曲 : [じょきょく]
 【名詞】 1. overture 2. prelude 
: [きょく, くせ]
 【名詞】 1. a habit (often a bad habit, i.e. vice) 2. peculiarity

1812年 (序曲) : ウィキペディア日本語版
1812年 (序曲)[じょきょく1812ねん]

序曲『1812年』(じょきょく1812ねん、)変ホ長調 作品49は、ピョートル・チャイコフスキー1880年に作曲した演奏会用序曲。タイトルの「1812年」はナポレオンロシア遠征が行われた年である。大序曲『1812年』(だいじょきょく-)、荘厳序曲『1812年』(そうごんじょきょく-)〔#園部〕、または祝典序曲『1812年』(しゅくてんじょきょく-)などと呼ばれることもある。チャイコフスキー自身は決して精魂を込めて書き上げた作品とは受け止めてはいなかったものの、歴史的事件を通俗的に描くという内容のわかりやすさによって、人々に大いに喜ばれる作品となった〔#園部 p.6, pp.8-9〕。
== 作曲の経緯 ==
1880年5月末、チャイコフスキーは一通の手紙を受け取る。差出人は懇意の楽譜出版社であり、手紙には以下の趣旨のことが書かれていた。「ニコライ・ルビンシテインが将来開催される産業博覧会の音楽部長に任命され、ニコライは貴殿を取り立てるべく、以下の3つの題材のうち1つに基づいた作品を書いてもらいたいとのこと。一つは博覧会のための序曲、二つ目はツァーリ即位25周年のための序曲、三つ目は様式はどのようにしてもいいが、正教会の雰囲気を持った救世主ハリストス大聖堂開基のためのカンタータ。収入になります」〔#1812〕〔#園部 p.6〕。チャイコフスキーの個人史の中では、1880年とその前後の時期はバレエ『白鳥の湖』やオペラ『エフゲニー・オネーギン』といった大作の作曲のあとの「なかだるみの時期」に相当する〔。そのような時期に舞い込んできた頼まれ仕事であったが、チャイコフスキーはすぐに返事を出さなかった。6月23日にようやく返事を出したが、ユルゲンソーンからの手紙に不備があったのか、チャイコフスキーは返事の中で「件の収入をきっちり指定すること」と「期限を定めること」、「声楽曲であるならば、形式や背景について曖昧にせずきっちりと記すべきだ」という意味のことを書き連ねた〔〔#園部 p.7〕。さらにチャイコフスキーは10日後の7月3日に出したユルゲンソーン宛ての手紙の中で依頼そのものが不愉快であり、「自分自身が感動しないであろう作品に手を付けることはできない」と突っぱね、この時点で作曲の話は一度は沙汰やみとなる〔〔。しかし、一方で8月末から9月にかけてチャイコフスキーは声楽曲の作曲を念頭に置いたのか、ユルゲンソーンを通じてモスクワの蔵書家に古典詩の本を送ってもらうよう要望を出している〔。
9月28日、ニコライからの手紙がチャイコフスキーのもとに届いた〔〔。ニコライは手紙の中で、作品は15分から25分程度の物を望んでいることを明らかにする〔。友人から直の頼みを曲げることはできず、チャイコフスキーは9月30日から11月7日にかけて作品を書き上げた〔#園部 p.5〕。もっとも、作曲を合間を縫って書いた手紙の中でチャイコフスキーは、相も変わらず不満を並べ立てていた。資金のパトロンであるメック夫人には「凡庸なものあるいは騒々しいもの以外に何が書けるのでしょう?しかし、依頼を断る気にもならない」と書き〔#園部 pp.7-8〕、弟アナトリー〔アナトリーととは双子の関係(、)。〕に対しても「ニコライからの依頼が重荷になっているが、責任は果たさなければならない」という趣旨の手紙を送っている〔〔#園部 p.8〕。10月中旬になると『弦楽セレナード』の作曲も並行して進められるようになり、この時期のメック夫人やアナトリーへの手紙でも「序曲はおそらく騒々しいものになる。私は特に愛情を持って書いたつもりはない」と書き、ユルゲンソーン社主ピョートル・ユルゲンソーンに対しても「この作品が良いものになるか悪いものになるか、私はためらうことなく後者だと言える」と書いている〔。10月下旬にチャイコフスキーは急な頭痛に悩まされるも、総譜の仕上げは11月7日に終えた〔。
こうして作品は完成したが、肝心の1881年に件の博覧会は開かれず、3月23日には依頼者のニコライが亡くなった。作品を持て余したチャイコフスキーはエドゥアルド・ナープラヴニークに、作品をサンクトペテルブルクで演奏するよう依頼をするも、ナープラヴニークは時期が来るまでは置いておくことが必要だと返答して、作品が日の目を見る機会はなかなか訪れなかった〔。1881年も後半になってチャイコフスキーはユルゲンソーンに作品の総譜とピアノ・ソロ版、ピアノ連弾版の3つを送付した〔。さらに、1881年末から1882年にかけては改訂を行い、1882年4月から5月にかけてメック夫人に宛てて書いた手紙の中でも改訂について触れている〔。1882年5月、作品はいまだ初演されていなかったものの、ユルゲンソーンからオーケストラ版、ピアノ・ソロ版およびピアノ連弾版の3つの総譜が出版された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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